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予告編
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厚生労働省社会保障審議会推薦児童福祉文化財
日本映画ペンクラブ 推薦 / (社)日本PTA全国協議会 推薦
(社)青少年育成国民会議 推薦 / 青少年映画審議会 推薦
(財)日本YMCA同盟 推薦 / 東京都知事 推奨
シグニス・ジャパン 推薦 / カトリック中央協議会広報部 推薦
(財)キリスト教視聴覚センター(AVACO)
社会福祉法人全国社会福祉協議会・全国児童養護施設協議会
後援
社会福祉法人全日本手をつなぐ育成会 後援
社会福祉法人東京都知的障害者育成会 後援 (財)日本知的障害福祉協会 後援 全日本知的障害養護学校PTA連合会
後援
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日系ブラジル人のニシヤマ・ヨーコ(22)は、祖父から写真を手渡される。 そこには、西郷隆盛を彷彿とさせる大男の姿が写っており、裏には、『石井のお父さんありがとう』 と書かれていた。
ヨーコは、日系人である自分のルーツを探るために、そしてその“石井のお父さん”とは誰なのかを知るために、祖父の生まれ育った日本・宮崎の地へ向かう…。
宮崎の児童養護施設で、園長と出会ったヨーコは、祖父が育った“岡山孤児院”の存在と、福祉という言葉もない明治時代に、命と生涯をかけて、3000人もの孤児を救った“石井十次”という男の名を知る。
次第に解き明かされていく、十次の波乱万丈の生き様。そして、まさに奇跡としかいいようのない偉業の数々。一度は放蕩に身を持ち崩しつつも、改心して立ち直り、“孤児の父”として、次々に襲ってくる困難を、祈りつつ、あふれる愛と斬新なアイデアをもって乗り越えていくその姿は、まさに“愛と炎の人”であった…。 |
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慶元(1865)年 |
宮崎県児湯郡上江村(元高鍋町)馬場原に生まれる。 |
明15(1882)年 |
岡山甲種医学校に入学。 |
明17(1884)年 |
岡山キリスト教会で洗礼を受ける。 |
明20(1887)年 |
岡山上阿知の診療所に勤務し、孤児を集め勉強を教える。
後に岡山孤児院を開設。 |
明25(1892)年 |
前年に起きた濃尾大地震による震災孤児のための
孤児院を名古屋市につくる。 |
明31(1898)年 |
私立岡山孤児院尋常高等小学校を設立。 |
明39(1906)年 |
東北地方の大飢饉による孤児を助けるなどし、
岡山孤児院の収容児童数が1200名となる。 |
明40(1907)年 |
岡山孤児院20周年。当時、世界第3位の収容者数だった。 |
大元(1912)年 |
宮崎県高鍋町の茶臼原に移転。次第に孤児村へと発展。 |
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この頃から持病の腎臓炎が悪化。 |
大3(1914)年 |
1月30日 永眠。享年48歳。 |
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