|
|
|
|
|
|
岡山県高梁市に生まれ、幼くして商家の養子になった幸助は、ある日、金持ちの武士の子に一方的に殴られ、耐えきれずに相手に噛みつき打ち負かす。そのことで米屋を営む実家は得意先を失い、幸助は父から折檻を受け、学校を退学させられたあげく商人になることを強いられる。幸助は幼くして不平等な身分社会に憤りを感じる。
青年になると、幸助はキリスト教へ入信。同志社英学校( 神学科) へ月謝免除で入学。
その頃、「遊郭」と「監獄」という人間社会の二つの暗黒面の存在を知り、監獄改良を訴え続けたジョンハワード伝を読んだことに強い影響を受ける。そして24 才で卒業後、丹波教会の牧師となる。
多くの人に信頼される牧師として活躍した幸助だったが、明治24 年、金森通倫牧師の勧めで、妻子を連れて北海道・空知にある監獄の教誨師に就任する。
その頃、空知集治監では、重罪犯2,000 人を収容し、中には、終身刑を3 つも4 つも持っている囚人もいた。強制労働など過酷な刑罰を受ける囚人達。幸助は、なんとか囚徒を更生させ、監獄を改革しようと、3 年に渡って囚徒の過去を調査する。そして、犯罪の芽は幼少期に発することを知り、幼い頃の家庭教育の大切さに気づく。また、幼き日の友人が、犯罪者になっていたことも少年感化に従事する遠因となる。
幸助は教誨師を辞めると、米国に渡り2 年をかけて欧米の監獄事情を学ぶ。そして帰国後、少年感化を実現すべく、北巣鴨の一角に『家庭学校』を作り、広く感化を要する子弟を教育、少年感化事業の先駆者となる。
後に巣鴨の地が都会的になると、ルソーの著書「エミール」に書かれた『子供を育てるには大自然の中が一番』という説に感銘を受け、北海道・遠軽の地に家庭学校を作る。
その教育は、21 世紀となった今もなお受け継がれ、その土地は留岡という地名になって現在に至っている。 |
|
|
|