国家の政策に純粋に
協力しただけと言っても
この事実は一人一人が責任を
問われる事になる。
国家に尽くした日本国民は
加害者であって
被害者であったのです——
日本の敗色が鮮明になった、
東京大空襲。
それがあってもなお、
満蒙開拓団として
日本を発つ一団があった——
昭和二十年五月一日、敗戦間近に三つの村の村長に説得され、一年だけと言う約束で満州へ渡る。
山本慈昭は長野県下伊那郡会地村にある長岳寺の住職であり、国民学校(現在の小学校)の先生でもあった。
昭和二十年五月一日、敗戦間近に三つの村の村長に説得され、一年だけと言う約束で満州へ渡る。
八月九日に、日ソ不可侵条約を破ってソ連軍が一方的に攻めてくる。八月十五日の敗戦もわからずに逃げ廻るが、女子供を抱えてシベリア国境近くの北哈嗎の町より逃げても、なかなか先に進まない。
列車もなく、橋は関東軍が逃げる時に壊して行き、平原を歩くとロシア兵に捕まるので山の中を歩き、食料もなく死の旅であった。
-
桜の咲いている自然の美しい日本に見とれ…
或る日、慈昭達一行はロシア兵に捕まり勃利の街の収容所に入れられ、16歳以上の男性はシベリアに連れて行かれる。極寒の中、
労働をさせられた慈昭は、奇跡的に一年半後に日本に帰国する事が出来た。
桜の咲いている自然の美しい日本に見とれ…
ようやく家に帰り着くと、阿智郷はわずかの帰還者はあったものの全滅との報であった。
妻と子供達は亡くなったと知らされる。
世の中が民主主義となり、大きく変わりつつある頃慈昭は開拓団の仲間達の辿った運命を『阿智村・死没者名簿』としてまとめる。
同じ頃、天台宗・半田大僧正に会い長野県日中友好協会会長を引き受ける事を聞き、平岡ダム建設のため強制連行された中国人の事を知り、
遺骨を本国へ返す運動に力を注ぐ。
中国を訪れてから一年あまりがすぎた頃、慈昭のもとに一通の手紙が届く。
手紙は日本人孤児からの物で、戦争で離れ離れになってしまった子供達が、両親を恋しく思い、再会したいという気持ちが詳しく書いてあった。
読んでいくと、目頭から熱いものがこみ上げる。慈昭は、満州で沢山の日本人が優しい中国人によって育てられている事を知り、
遺骨収集よりも生きている孤児達の日本帰国救済運動に大きく踏み込んでいく。
慈昭は遂には国を動かし、
次々と孤児が発見され、訪中の末その帰国や里帰りが実現していった。
そして娘の冬子とようやく再会したのは、慈昭が八十三歳の秋であった。冬子は慈昭と二人きりになった時、あの満州のことを語るのであった。